昭和四十八年四月二十七日 朝の御理解
御神訓 道教えの大綱 一、神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ。頼む心に隔て なく祈れ。 一、清き所も汚き所も隔てなく天地乃神はお守りあるぞ。わ が心に不浄を犯すな。
教祖金光大神様に、現れておられる神様は今御奉読申し上げましたような神様であるという事。私共が生神金光大神、天地金乃神と拝ませて頂く神様はそのような神様だと。神は昼夜も遠きも近きも問わざるのもぞというそういう神様。
同時に清き所も汚き所も隔てなく御守り下さってあるのが天地金乃神様。
そこで頼む心に隔てなく祈れ。又はわが心に不浄を犯すなというところが一番大事な事になってくるわけです。
私共が拝ませて頂いておる金光大神を通し現れておられる神様は、今申しましたような神様。近いも遠いもない。昼も夜もない。清い所も汚い所もない隔てなく御守護下さってあるのが、天地お親神様、天地金乃神様である。
そこでその天地金乃神様におすがりするという、その心がね、頼む心に隔てなく祈れというところ。頼むというところを信頼心(しんらいしん)と書いてあります。
信頼心に隔てがあってはならないと。同時にわが心に不浄を犯すなと。私はここのところをですね、頂かしてもらう信心が頂けた時にです、この有難い御信心を、それこそ迷わず失わず、末の末までも教え伝えなければならん、又おられん。
同時に又、自分の周囲にもです、この事をです、皆さんに伝えて信心してもらわなければおられんというものも生まれてくると思うのです。
今、教主様の歌集を一番はじめから読ませて頂いております。もう教主様のお若い時からのものなんですが、これは四十才位の時のものではなかろうかと思うのですけれども、本当に読ませて頂いて、お作りになっておる歌が上達していっておられるという事もさる事ながらね、御心境の進みというものが、よくよく感じられる。
いわゆる御信心の進めておられる状態、又頂いておられる状態というものを、まあ感じとらせて頂くのです。
昨日読ませて頂きました中に、こういうお詠があります。
「頼りなきものを頼りとするゆえ、この頼りなき不安なれかも」・・(二度読む) ですからこの時代教主様はその不安なものをいっぱい持っておられたということがわかります。けれどもね、ここまでに至ままでが大体信心というてもよいくらいです はあ-、自分がこのように頼りのないののに頼っておる事が不安であり、心配であり、取り越し苦労であり、今感じておる難儀というのは、頼りないものに頼っておるからだという事です。
ここまでわかったらね、素晴らしいと思うのです。ここのところがわかって、そんなら頼りがいのないものには、頼らんぞという事になってくるわけです。
金を杖につけば曲がる。木や竹では折れる。神を杖につけば楽じゃという、ここのところを頂かせて頂くその前提として、ここがわからなければいけない。
もう大変なところですねここは。何かしらんけれども不安である。焦燥がつきない そこに難儀を感ずるという事はまだまだ頼りなきものに頼っておるゆえだという事です。
先日、二十五日の研修会の時でしたかね、吉井の熊谷さんが発表しておられます事の中に、こんな発表をしておられました。
北野の堤さんがあのような事で亡くなられた。そんな時に一番はじめに熊谷さんの心にいわばひらめいたものは、「もしこれが自分のところの息子であったらどうなるだろうか」とこう思うたと、こう言う。
あちらもお一人息子さん、則郎さん。今大阪へおられる。中々の、それこそよいお子さんです。親孝行ですしね、もし万一、則郎がこういうアッという間に亡くなるような事になったらどうするだろうかと、自分の事にひっきょされたわけです。
そして次に思われた事は、はあ-、それでもです、神様の御神意で亡くなるのであれば、それは仕方ない。清弘(孫さん)がおると思うたとこう言うのです。
お孫さんが今、小学校の二年生でしょうか。長男がもし、例えば、それこそアッという間に亡くなるような事があった時に、自分はどうするだろうかと思うた時にですそれでも孫がおるからとこう思われた。
やっぱり様々な自分の心の状態というものう知る為には、人が難儀な状態にある時にその難儀な状態を見てです、自分ならばどう生きるだろうか、どう受けるだろうかどう信心を進めるだろうかと思うてみると非常に自分の信心の程度がわかりますね。 これはもう実感ですから。そして、はあ-、おかげ頂いたもんだなあと思うだろうし、はあ-、まだまだ足りんなと思う事もありましょう。
それで私、熊谷さんに申しました。例えばそんなら、交通事故で親子、自動車に乗って行きよってから、親子一家中で川の中へ落ち込んで死なっしゃったと、もう毎日のように、そういう新聞記事をみるとありましょうが。
息子も頼りにはならん。孫も頼りにはならん。頼りにならないものを頼りにしておるという事が不安になるのであり、焦燥、心配になるのである。
難儀というものはそこから起きてくるのです。皆さんこれはもう本当にそうなんですよ。そこでさすがに熊谷さんの事ですから、ああそうでしたとこうすぐわかられた 本当に頼りになるものは神様以外にはないんだというところまでいった時にです、不安はない、心配はないとう事になってくるです。
昨日朝のお届けが終わって、お食事に下がっとりましたら、北野の中村さんがお参りして見えた。それでまあしばらく二人でお話をさせて頂いたんですけれども。
最近片一方の目が段々見えなくなってきた。片一方の耳も聴力が弱い。だからいよいよ完全に見えんごとならなければ手術が出来ないというわけです。
どうぞ、いっちょ、それけんもう、目が見えんごとならんごつだけは、いっちょ、お願いしてから、して下さいというわけです。
「見えんごとなったっちゃよかじゃねえの」と私が申しました。私も時々、お結界で目をつぶってから盲になった時の事を思うてみる。
「どうぞ目が見えるようになりますごと」ともうこれは大変無理な事なんです。そういう思い方は、どうぞ目が段々薄くなりよりますから、目が見えるようになりますごとという願いは・・・・。
そして見えごとなったらどうするじゃろうかと思うて不安でしょう。そして、よしこれが見えなくなっても、そこから先にです、心の目を聞きなさいと私が申しました 私も時々そげん思う事があるよ。それはどうぞお願いして下さいと言うてから、お願いもします、お取次もします。そして盲が目が見えるようになった、ちんばが立つようになったという、いうならば、おかげも体験させて頂いておるけれども、一番有難い思い方はですね、盲になってもよいという、しかも盲になったらね、もう盲にならなければわからない味わいがある事をね、知ると盲になる事も楽しゅうなってくるです。
私は時々自分で・・・片一方の耳は全然聞こえません。中村さんも片一方の耳は全然聞こえません。それでどうぞ、耳が又近うなりますごとという願いをされる。
けれどももう全然聞こえない世界、見えない世界がそこにあってもです、今まで知らなかった見えない世界、今まで気がつかなかった聞こえない世界ね、それはもう見える者やら聞こえる者では味わう事の出来ない、味わいがある事を私は信じておる。 だから私は耳が聞こえんごとなってもいい、目がみえなくなって失敗してしまってもいい、そういう気持ちにならなければ助かっとるとはいえないよと言うて、その事についていろいろ話した事でした。
信心とはね、そういう心の状態が開けてくる事なんです。目が見えるようになるという事ではなくてです、見がみえなくなっでも、耳が聞こえなくなっても、そこから有難いものを頂いてゆけれるという道が信心の道なんです。
ですから、この有難い尊い道をです、子にも孫にも、人にも、これを伝えておかなければなられないという事になってくるわけです。
信心ちゃ有難かばの、商売繁昌するですよ。医者の見放した病人でも助かるですよと、死人が蘇るような霊験もあるですよと、そういうような事が有難いという信心はもう実にたわいがない事になるのです。いわゆる他愛のない信心です。
金光様は、いうなら、まだお若い、そういうまだ四十才位になられると推察されるわけですけれども、そこんところをいうなら悟られた。
「頼りなきものを頼りとするゆえのこの頼りなき不安なれか」。目が見えんごとなったらどうするじゃろうか、あの人に頼んどるが大丈夫だろうか、いつも不安は絶えないのである。
信心というのはね、そういう心を開かせて下さる道をもう、じゅん々と教祖様は説いておって下さる。
例えば今日、御神訓二ケ条を奉唱させてもらいました。だから問題は信頼心、頼む心に隔てなく祈るという、その信頼心を犯すなとおっしゃるから、自分の心に不浄を犯さんですむ信心。
お道では不浄という事を成就しない事という意味に説かれております。けれどもやはり自分の心に汚いものを感じたりするのもやはり不浄ですね。
まあどちらにも頂かにゃならんと思うのです。自分の心に不浄を犯さんですすむ信心、信頼心がいよいよ間違いのない、頼む心ということは頼んだら最後、もうあなたにお任せしますという信頼心。
昨日、ある方が「こちらの親先生にも糖尿病であんなさるそうですが、どげな口養生なさりよんなさるですか」と。丁度お祭りの時に、羊羹のようなお菓子が一切れ出ておりましから、もう食べたい時には、こういう甘いものもさっさと頂きます。
毎晩晩酌も頂きますと、時には過ごす事もあります。そして頂く時は、腹いっぱい頂きます。勿論、二回ですけれども・・・・・。腹いっぱいというか、適当に腹いっぱい頂きます。「そげな事しなさるなら、糖尿は悪くなるばっかりでしょうもん」と言うから、「それは悪うなりよるか、どうか知らんけれども、成程これだけ沢山お水を頂くところをみると、平常ではないようである。
けれども、この水が苦かったり、辛かったりするなら困るですけれどもね、もう頂くたんびにもうコップ一杯がおいしゅうてこたえんのですから、もうこげな有難い事はないですよ。
皆さんでも喉のかわく時に冷たい水をきゅ-っと飲む時のあの快さ、そういう快さというものをいつも私は感じでおる。
その飲むことがせんぶり飲むごと苦かったり、辛かったりするなら難儀な事ですけれども、だから喉がかわく時には、それこそ五合でも一升でも飲ませて頂ける。
お食事はいつも腹いっぱい頂く。甘いものはいけんとか、辛いものはいけんと言われる。お酒でも何でも頂きます。
もう今朝久しゅう高橋さんからいつも尿の検査をさせてもらんきですけれども、致しませんけれども、もう段々おかげで尿に出てくる糖のあれがもう表れないようになってきた。けれどもまあだ、その医学的にいうならば、糖尿病である証拠に喉が乾いたりするのは、やっぱそのせいだというふうに思いますけれども。
それはどういううところから、そうして、その無茶苦茶ではなくてね、安心して飲めたり食べたりするからという事はね、私の神様に頼む心、信頼心に例えば誰よりもです、間違いのない信頼心を持ってるからだと思うのです。
絶対とは言えないそこを精進していきよる。又、自分の心に不浄を犯すなというような事。この食べ物は病気に悪いという事などはもうすでに不浄を犯しとる事。
神様が下さるものならば何でも頂くという、これは食べ物だけの事ではない。一切のものがそう、食べ物でそう。
目の前にいわゆる、食膳に出てきたものならばです、医学で言うならそげなん食べたら悪いといったような事を思わないですむということは、不浄を犯さない事です。 「こげなもん食べよったら悪か」もう不浄犯して食べよるけん悪か事になる。問題はその頼む心に問題があるのです。問題はあなたの心の状態に、不浄が問題になるのです。
これと少し意味はちょっと違うと思うのですけれども、こういうお詠がありました 「表現は問題ならず、問題は一に表現以前の我か」とういうのがあります。(二度読む)今、私が申しましたような事を申しますとです、同じ私も誰もが同じものを食べるという表現をしておられる。
けれども、それ以前のその心の状態が違うというわけです。例えばいろんな問題が起きるですしょう。そん時にその問題だけを問題にしてはつまらん。その問題以前の事が実は問題だというわけなんです。
ですけれども、今私が食べ物の事で申すならです、問題は食べようとする、飲もうとする、その以前の心の状態が問題なんだと。
私は神様のお恵みのものとして有難く頂く。ある人はああ、これは糖尿病には悪いけれども食べたいけん食べよる。だから悪いのだ。そうでしょうが。
私がそこに難儀を感ずる時、又は不安、心配、焦燥を感ずる時、頼りないものに手頼っておる時だと、まずは悟らにゃいけません。
この頼りなき不安なれかもという事です。そこでいよいよ絶対の神様にお縋りをする。神様にお縋りしとるけん大丈夫というものではあまりものの信心です。
絶対なものにしていっておらなければならんのです。神様を・・・・。
例えば、ここでは「親先生にお取次を頼ったから大丈夫」と、まあこれによく似た心です。その時には、私、大坪総一郎自身を信じなさらねばならないでしょう。
親先生にお願いしとるばってんどげんなるじゃろうかという時には、もう親先生自身を信じていないわけです。それは頼む心に隔てがあるわけです。
親先生を絶対と信ずる。そんなら親先生を絶対と信ずるという事は、どういう事なのが。例えば病気をすると致しましょうか、親先生にお取次を頂いておるのであるから絶対治ると、それと違うのです。
絶対というのはね、右、左はもうあなたに任せた、まあいうならば、例えば名医ともう大変な高いお医者さんがおられると。だからこのお医者さんに手を握ってもろうてようなるとか、ようならんとかはもう任せるという事なんです。
親先生のお取次を頂いときゃ、自分の思うようになるというのじゃなくてです、親先生にお取次を願ったからは、もう先はもう親先生にお任せするという心。
信頼心とはそういう事なんです。頼む心という事は・・・・・。そこにそんなら不安がないでしょう、心配がないでしょう。あらためて、耳が聞こえるごとなるごと、どうぞお願いしますというのではなくて、聞こえんでもよかじゃんのと。目が見えんごとなったっちゃよかじゃないの。
耳の聞こえない世界、いうなら目が見えない世界に新たに今まででは感じとる事の出来なかった素晴らしい世界があることを私は信じる。
だからもう見えなくなる事も聞こえなくなる事ももう不安がない。それを信ずる心がです不浄のない心なんです。
その為にです私共が本当の信心の道とはどういう道なのが真の信心とはどういう事を真の信心というのがとうい真の信心をわかからせて頂く為の信心修行が要るわけです。いわゆる成り行きを大切にさせて頂く。御事柄として受けて行くといったような信心修行が出来る。
同時に改まらせて頂く事にも研かせて頂く事にも、楽しみを持って改まっていこうとする意欲を示して行く信心になっていく限りです、神様にはいよいよ絶対な神様として、私共の上に現れて下さる。
このような間違いのない、いわゆる一分一厘の間違いのないこの神様の御働きに委ね任せるという事が信頼心、この心に隔てなく祈れとこう言うのである。
わが心に不浄を犯すなと。わが心に不浄を発見してそれを払うて行くという事が改まっていく事であり、研かせて行く事なんです。
私は本当に素晴らしいと思うです。今日の御理解頂きながら金光様の御信心は・・・・・。例えばそんなら金光様がです、四十代の若い時であろうと思われるこのお詠のところまで心境が進んでおられるという事は素晴らしい事だと思うです。
そんなら皆さんが今、不安がある、心配があるとういのはですね、それは頼りないものに頼っておるからだともうわかられたら、そこから本当の信心がわかる。
そこで、本当なものを頂こう、本当な神様を頂こう、頼りがいのある神様を本当に頂こう。又それを知ろうわかろうという意欲も又出てくるわけです。
ですから真の信心を進めて行く為には、ますここのところがわらにゃいかん。信心を何十年信心しておってもそれこそ、頼りなきものに頼ってさらくような事では、本当の信心が頂けるはずがない。
信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよとおっしゃるが、こういう信心を頂くから子供にも伝えとかにゃいかん。孫にも伝えておかなければおられん。いや自分の知っておる限りの人達にも話して、こういう心の状態になられたら、どんなに有難い事であろうかと不安のない生活が出来るようなるという事を頂いておからなければおられない事になってくるのです。
そうら神様にお願いしたらおかげで目が見えるごとなりました。神様にお願いしたら耳が段々近うなりましたというような事では絶対安心は生まれん。
だから願うたが最後、もう任せないけん。そんなら願うちゃならんというのじゃない。願うたが最後、親先生任せでなければいけない。その任せるという事が信頼心だと。頼む心に隔てなく祈れ。それは死ぬる生きるですがそう (ここで終わっております)。